ぼやける視界の中で、彼の姿を見た。 彼の髪は常と変わらず、流れる川のように、月の光を反射させていた。 彼はぐったりと壁にもたれている。 ――海賊どもにやられたのか。 自分の腹から流れ出る血には目をつむり、彼に嫌味を言ってやろうと思った。 ――大尉。何ですかその姿は。あの時、この仮は必ず返すと言っていたじゃありませんか… 言ってやる。 そんな自分も壁づたいにしか歩けていないが、運のいいことに、狭い窓から漏れる月明かりは、ちょうど自分を映すことはなく、まるで計算されたかのように彼の金の髪を照らしている。一体この演出は月が仕掛けたのか、彼が仕掛けたのか。彼は自分にスポットライトが当たっていることに気付いていないのか、動かぬままだ。 ――情けないですね、全く。 台詞回しは完璧。あとは機嫌を損ねた彼の反応を待つだけだ。 さすがに返す言葉もないだろうか。彼の自尊心は誰よりも気高いが、それ以上に真面目で嘘をつけないのが彼の性格だから。動けぬほどの傷を受けて、言い訳もつくまい。 腹の感覚は麻痺している。ついでに足まで麻痺しているのか、歩くのに支障があるが、彼は待っていてくれてるし、大丈夫だろう。 だが喉に込み上げる血液はどうにかならないか。呼吸しづらいし、せっかく用意した台詞に詰まったりしたら自分の方が情けないことになる。 幾度か血を吐いた。彼の前では我慢しなければ。 近くで見れば、綺麗な金の髪は所々絡まり、赤黒い汚れが付着していた。その様は自分の期待を裏切るものだった。 上質な絹の上着は、元が何色だったかわからないほどに変色していたが、それは月の光があまりに明るいせいで自分の目がおかしくなってしまったのだろうと納得した。 「大尉…」 よし、ちゃんと声はでる。かすれ声になってしまうが、聞こえるだろう。 「大尉」 反応がない。聞こえていないらしい。無理もない。大層な傷をつけられたようだ。全神経が痛みに集中してしまっているのかもしれない。 体勢を変えるのはつらいが、ゆっくりと膝をつき、彼の目線に合わせた。 こうすれば聞こえるはずだ。 「大尉…」 次の台詞は。なんだったか。相変わらず彼の反応はない。こちらを見ようともしない彼は自分を苛立たせる。寄せた眉間の皺から汗が伝わるのを感じた。 「…大丈夫…ですか」 喉の奥から反射的に漏れた言葉は自分を驚かせた。違うだろう、そんな台詞は言いたくない。あれだ、情けないですねとか、なんだこの様はとか。そんな台詞が言いたかったんだ。 「大尉……起きて…」 壊れ物を扱うように、そっと彼の髪に触れれば、自分の意思とは無関係に言葉が紡がれる。 違う、これは間違い。だって彼は起きている。うっすら目を開いている。 彼の目が何を映しているのか、それはわからないけれど。 ただどこか一点を見つめている。 ――なんだよ、これじゃあまるで…… 考えてはいけない。 しかし次の瞬間、そんな彼の瞳が歪んだ。 そして視界に映るすべてが不確かになった。 なぜ、など考える間もなく、自分の手のひらにポツリと落ちた透明な雫が答えを示した。 瞬間、頭の中が激しく渦を巻いた。自分の意思の入り込む隙もないほどの、思考のぶつかり合う音が聞こえてきそうな激しさ。目の奥が熱くなり、同時に腹の痛みが蒸し返す。頭の中は真っ白になった。 ――あぁ。 ――彼は、もういないんだ。 「…大尉…。綺麗だ…」 そう言って、彼の髪を撫でてやった。顔にこびりつく血漿をぬぐってやろうと思ったが、逆にまだ生暖かい自分の血を擦り付けることになってしまった。 肌は彼の性格を表現しているかのように青白く、長い睫毛が深い影を作る。唇は彼自身の血で赤く乾いている。 その唇にそっとキスを落とした。 いつもなら、突然何をする、なんて彼は言うんだろうな。冷静な態度を崩して、激情を露にする彼の表情が思い浮かぶ。 ――文句なら後でいくらでも言っていい。 口論になる度、最後は自分が言い負かしてしまって、彼はいつも悔しそうな顔をしていたし。たまには彼の思うようにさせてやろう。 だから今は。 彼の冷たくなった手をとり、骨張った指に自分の指を絡ませた。冷たさが心地よい。それが彼らしい。そんなことを考えながら、彼の肩にもたれるようにして、体の力を抜いた。 なぜだろう。意識が朦朧としてきて、彼の姿もまともに見られないのに、なぜだか今までにない充足感があった。 導かれるようにここに来た。ここに来てやっと彼と一緒になれた。もう海賊討伐なんて危険なことはさせないし、上司の命令に従うこともない。これからは、精一杯優しくしてやる。逆に彼は驚くかもしれないけど。 少し、眠ろう。 きっといい夢が見られる。 目を閉じれば、振り返り目を細めて笑う彼が見えた。そして金色に輝き、月明かりに溶けた。